小さきときに連れて行ってもらったドーム型のテントの中。「サーカスを見るんだよ」と言われたけれど、サーカスがなんなのかまだわからなかった私。
初めて見たサーカスは夢を見ているようだった。
夢中になって大声を出してサーカスを楽しんでいた私を見て、両親は1つのDVDを渡してくれた。
映画「ダンボ」。
この前見たサーカスが、またTVの中で再現されていた。
今ではサーカスがあるならば必ず見に行くほどのサーカス好きになってしまい、大人になっても夢心地を楽しんでいる。
空飛ぶゾウにはまだ会えていないけれど、それ以上の感動をいつももらっている。
今までに見たサーカスは数知れず。その中でも思い出に残ったサーカスをご紹介します。
サーカスは動物を使った芸や人間の曲芸など複数の演目で構成される見世物。一般的に円形劇場や天幕などで催され、舞台を群集が取り巻いて見下ろす形態が取られる。古代エジプト時代に始まり、ローマ時代にその原型がなされた。また、近代サーカスの原点としては1770年のイギリス「アストリー・ローヤル演芸劇場」での開催とされる。 実際のサーカスはワクワクするものですが、カジノでも今も昔もスロットの人気のモチーフとなっています。
語源はラテン語で円周・回転を意味する語であるとする説と、古代ローマにおいて人間と猛獣の格闘などに使用された円形競技場(キルクス)であるとする説がある。現在の動物の芸や人間の曲芸が見世物として成立したのは古代エジプト時代であり、それらを円形の劇場において実施するという形態が取られ始めたのが古代ローマ時代とされている。
近代サーカスはイギリス人退役軍人のフィリップ・アストリーによって確立され、ヨーロッパからロシア・アメリカへと広がったとされる。しかしアストリー自身は「サーカス」という用語を使っていない。従来より見世物として確立していた動物芸、人間の曲芸に加え、アストリーは道化芸という概念を新たに取り入れている。道化芸は19世紀初頭に活躍したパントマイム役者ジョセフ・グリマルディ、ジーン・オリオールらによって現在の喜劇中のふられ役・失敗ばかりして観客の笑いを取るというスタイルが確立され、真っ白に塗った顔にだぶついた服装というお決まりの姿で、近代サーカスでは欠かせない要素のひとつとなった。
日本にはじめてサーカスが訪れたのは1864年で、「アメリカ・リズリー・サーカス」により横浜で興行がなされた。それまで日本でも見世物は存在したが、それぞれ芸種別に一座を組んで個々に興行を行うというスタイルが一般的で様々な演目を一度に見せるというサーカスは大きな反響を呼んだ。1883年には、イタリアのチャリネ一座が来日する。この公演に強い衝撃を受けた五代目尾上菊五郎は『鳴響茶利音曲馬』という猛獣使いなどが登場する歌舞伎を上演している。日本人のサーカスとしては、チャリネ一座から名前をとり、1899年に山本政七らによって設立された「日本チャリネ一座」が最初であるとされる。日本チャリネ一座では馬や象、熊なども用いて曲芸や猛獣芸などを披露した。その後、大正末から昭和にかけて有田サーカス・木下大サーカス・シバタサーカスなどが続々と創立し、人気を博した。ただし、各団体が「サーカス」の呼称で名乗るようになるのは、1913年のハーゲンベック・サーカスの来日以後のことである。 昭和23年(1948)の児童福祉法が制定された。これにより「公衆の娯楽を目的として曲馬または軽業を行う業務」に満15才未満の児童を使用する事が禁止され、年少期に芸を仕こまなければならないサーカスにとって、芸の後継者を育てる事が困難となった。 現在日本のサーカスで子供達が出演しないのはこの法によるものである。 1930年代から1960年代までは20〜30団体があったがその後激減し、1995年には国際サーカス、1996年には矢野サーカスが活動を休止。木下大サーカス、キグレサーカス、カキヌマ大サーカスの3団体を残すのみとなったが、同年12月にポップサーカスが旗揚げし、現在はキグレNewサーカス・木下大サーカス・ポップサーカスが日本三大サーカスとされている。カキヌマ大サーカスは拠点を海外に移したと言われているが、2002年頃までは国内での活動が確認されている。
1992年、テレビ局のタイアップでシルク・ドゥ・ソレイユが来日。再びサーカスブームが訪れる。 その効果からテレビアニメカレイドスターやテレビCM鉄骨飲料などサーカスを取り上げたものが多くテレビで放送された。 2001年、NPO法人国際サーカス村協会が運営する4年制の沢入国際サーカス学校(学校法人ではない)が日本唯一のサーカス学校として創立される。 2010年、日本三大サーカスのひとつとされていたキグレNewサーカスが、10月19日付で事業を停止したと発表した。
近代サーカスで上演される演目は無数にあり、多様化の一途を辿るが、一般的な演目としては以下のものが挙げられる。
ダンボは、1941年、ディズニー制作のアニメーション長編映画作品。またその主人公である子象の名前。
サーカスの象のジャンボのもとに、コウノトリが一匹の赤ちゃん象を届ける。その子象はとても可愛らしい子象であったが唯一耳が大きい事が他の象との違いであった。ジャンボはその子象にジャンボ・ジュニアと名づけたが、他の象達にそのことを笑われダンボとあだ名されてしまう。
それでもジャンボは愛情をたっぷり注ぎ、可愛い我が子ダンボを大切に育てた。ある日、サーカスを見に来た子供にダンボをイタズラされているのを見て、ジャンボはたまらずその子供をお仕置きする。サーカス団員がそれを止めに来るが、興奮したジャンボは思わず団長を投げ飛ばしてしまい、凶暴な象として檻に入れられてしまう。
耳が大きいだけで化け物扱いされていたダンボは誰にも慰めてもらえず、生まれた直後から母親から引き離されるという苦しさの中から、悲しみのどん底に落ちる。これを放っておけなかったサーカス団員のネズミ、ティモシー(チモシーマウス)はダンボを助ける為、ダンボをサーカスのスターにする事を提案。象のピラミッドの頂上へジャンプさせる事を思いつく。
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